正義と必然 シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』より、抜粋
ピタゴラスやソクラテス、プラトンなどの生きた古代ギリシャの諸々に、とても共感する、というのか、憧れる。
自然と一体になっていて、しかも社会的にも成熟している。数学的な美を身の回りに感じつつ、どうして政治が腐敗してしまうのか、正義について考えている。
人間は2500年前も、(きっともっと前も。書物が残っていないだけ)今も同じことを繰り返している。
大好きなこの本の中から、少し抜粋して、紹介させていただく。
シモーヌ・ヴェイユ著 今村純子訳
『前キリスト教的直観 — 甦るギリシャ』 法政大学出版局
*****「ピタゴラス派の学説について」の章から
必然性は正義にもかかわる。だがある意味では、必然性は正義の対極にある。プラトンが、[『国家』第6巻493c]で述べているように、必然の本質と、善の本質とがどれほど異なるか知らなければ、何も理解することは出来ない。
正義が人間に立ちあらわれるのは、何よりもまず選択として、すなわち、善を選択し悪を拒絶する者としてである。
必然性とは、選択の余地がないこと、無関心であるということである(ひろこ/これは訳が良くないと思う。むしろ「無頓着」のほうがよいのでは)
だが、必然性は共存の原理である。そして根源的には、わたしたちにとっての至高の正義とは、実際に存在するすべての人間、すべての事物と自分との共存を受け入れることである。敵をもってもよいが、敵が現実に存在しなくなることを願ってはならない。(中略)
諸存在と、諸事物が自分と共存することを受け入れるならば、わたしたちはもはや支配と富とをむさぼりはしなくなるであろう。というのも、支配と富はこの共存をヴェールで多い、自分以外のすべての持ち分を縮小させることしかしないからである。あらゆる侵犯、あらゆる深刻な罪は、この共存を拒絶する個々の形態である。(中略)
直角三角形がその斜辺を直径とする円から外に出ることを禁じられているということと、例えば、不正義を働いて権力や金銭を得ることを差し控える人がいること ― この両者の誠実さには類比関係があり、前者を後者の完璧なモデルとみなすことができる。ヘラクレイトスはこう述べている「太陽といえども限界を踏み越えることはないであろう」(中略)
目に見える世界そのものにおいても、、また数学的ないし類似的な諸関係においても、事物の誠実さを観照することは、誠実さに至るための強力な手立てとなる。この観照が教える第一のものは、選択しないこと、すなわち、現実に存在するすべてに等しく同意することである。この普遍的な同意とは自己離脱と同じことであり、ほんのわずかな、また一見したところいかにも正当なものだと思われる執着ですら残存するようなことがあれば、この同意は妨げられてしまう。それゆえ、すべての人と事物に光が平等に降り注ぐことをけっして忘れてはいけない。(中略)
必然性を観照してそれを愛するようにさせるもの、それは世界の美である。美が無ければ、それは不可能であろう。(中略)
美は一つの神秘である。この世で最も神秘的なものである。だが美は一つの事実である。存在するものはすべて、美の威力を知っている。(中略)
実際、世界は美しい。ひとり大自然の直中で思いのままに注意を傾けるとき、何者かに導かれるように周囲に愛が注がれる。そして日は、例えば重力が山や波や星の運行に刻み込む襞のように、必然性がはっきりとあらわれていればいるほど、活き活きとわたしたちに触れてくる。純粋数学においてもまた、必然性は美によって光り輝いている。
*****
プラトン「完全な正義と愛は同じものである」〈 国家196c 〉という言葉も、参照されている。
なんかねえ、芸術にそれを思い出させる役割があるように感じるのですよ。
自然と一体になっていて、しかも社会的にも成熟している。数学的な美を身の回りに感じつつ、どうして政治が腐敗してしまうのか、正義について考えている。
人間は2500年前も、(きっともっと前も。書物が残っていないだけ)今も同じことを繰り返している。
大好きなこの本の中から、少し抜粋して、紹介させていただく。
シモーヌ・ヴェイユ著 今村純子訳
『前キリスト教的直観 — 甦るギリシャ』 法政大学出版局
*****「ピタゴラス派の学説について」の章から
必然性は正義にもかかわる。だがある意味では、必然性は正義の対極にある。プラトンが、[『国家』第6巻493c]で述べているように、必然の本質と、善の本質とがどれほど異なるか知らなければ、何も理解することは出来ない。
正義が人間に立ちあらわれるのは、何よりもまず選択として、すなわち、善を選択し悪を拒絶する者としてである。
必然性とは、選択の余地がないこと、無関心であるということである(ひろこ/これは訳が良くないと思う。むしろ「無頓着」のほうがよいのでは)
だが、必然性は共存の原理である。そして根源的には、わたしたちにとっての至高の正義とは、実際に存在するすべての人間、すべての事物と自分との共存を受け入れることである。敵をもってもよいが、敵が現実に存在しなくなることを願ってはならない。(中略)
諸存在と、諸事物が自分と共存することを受け入れるならば、わたしたちはもはや支配と富とをむさぼりはしなくなるであろう。というのも、支配と富はこの共存をヴェールで多い、自分以外のすべての持ち分を縮小させることしかしないからである。あらゆる侵犯、あらゆる深刻な罪は、この共存を拒絶する個々の形態である。(中略)
直角三角形がその斜辺を直径とする円から外に出ることを禁じられているということと、例えば、不正義を働いて権力や金銭を得ることを差し控える人がいること ― この両者の誠実さには類比関係があり、前者を後者の完璧なモデルとみなすことができる。ヘラクレイトスはこう述べている「太陽といえども限界を踏み越えることはないであろう」(中略)
目に見える世界そのものにおいても、、また数学的ないし類似的な諸関係においても、事物の誠実さを観照することは、誠実さに至るための強力な手立てとなる。この観照が教える第一のものは、選択しないこと、すなわち、現実に存在するすべてに等しく同意することである。この普遍的な同意とは自己離脱と同じことであり、ほんのわずかな、また一見したところいかにも正当なものだと思われる執着ですら残存するようなことがあれば、この同意は妨げられてしまう。それゆえ、すべての人と事物に光が平等に降り注ぐことをけっして忘れてはいけない。(中略)
必然性を観照してそれを愛するようにさせるもの、それは世界の美である。美が無ければ、それは不可能であろう。(中略)
美は一つの神秘である。この世で最も神秘的なものである。だが美は一つの事実である。存在するものはすべて、美の威力を知っている。(中略)
実際、世界は美しい。ひとり大自然の直中で思いのままに注意を傾けるとき、何者かに導かれるように周囲に愛が注がれる。そして日は、例えば重力が山や波や星の運行に刻み込む襞のように、必然性がはっきりとあらわれていればいるほど、活き活きとわたしたちに触れてくる。純粋数学においてもまた、必然性は美によって光り輝いている。
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プラトン「完全な正義と愛は同じものである」〈 国家196c 〉という言葉も、参照されている。
なんかねえ、芸術にそれを思い出させる役割があるように感じるのですよ。
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