パウル・クレーの言葉と音楽の類似性

大好きなクレーの「造形思考」を読んでいて、同じ気持ちで、音楽に向かっていることに気がついた。
クレーの絵は生きている。形も線も、色も。何かを発し続けている。と私は感じる。だから、クレーの絵から離れられない。

面白いので、その部分を書き出していく。

<前書き>から***

(自画像の2枚の絵と)
わたしが表面を反映させるために(そんなことはな写真でもできる)存在するのではなく、内面に深く入り込まずにいられないことを銘記していただきたい。わたしは額の上や口のまわりに言葉を書きつける。わたしの人間の顔は、現実の人間の顔よりも本物である。もしわたしが本当に真の自画像を描けと言うのであれば、あなたがたはひとつの奇妙なものを見ることになろう。その内側に、くるみの中の核のように、わたし自身が存在する。

(クレーの教育活動の中で)
我々は自分たちの性に会ったことをやってかまわない。わたしは内的に支配できるものを表現したいと思って、もっぱら自分の内的なものだけにたよった。

絵画の真の表現の主題は、内容と色彩との多様な調和を見ることである

クレーの授業の目的は、芸術創造において生命あるものを現し、それを動的な組成によって明らかにし、合法則的なものを根源的なルールのうちにしっかり据えることであった。
(教育者は) 根底まで到達して、創作し始める人はほとんどいない。生命を恐れ、不確かなものを恐れるが故に、大部分の人は理論にしがみついている。

創作中、一つの型が発生の原初的段階から生長して、わたしがゴールに到達するといつでも、強さが急速に消滅し、わたしはなにか新しいものを探さなければならなくなる。制作中には、過程が本質的なものであり、生成は完成した存在よりも重要である。

いくつかの相が相互に浸透しあえば、形成物は生命を持つことができるにちがいない。内と外の間にある調和はフォルムの問題ではなく、心の全体の問題、精神の問題である。

種子から花への複雑な発達は、動力学的な過程の接合としての生長が、どのように「その本質において」表現されうるかという問題を包含している。

コントラストはフォルムの部分に関してのみ存在するが、色価を介して統一が再建される。

(青年時代に書き留めた手記に)
わたしは死についてつくずく考える。死は、生涯のうちに完結できないものを償ってくれるのだ。あきらめとしてではなく、完全への努力としての死をあこがれる。

わたしは、作品が形を成す間にむしろ無意識裡に進行してゆく創作過程の諸部分を、作品のなかにとり入れてゆきたいと思う。

形態が生命をもつためには理論から脱して、有機的完成のなかで新しく秩序づけられるべきものだ。

人はつねに発展のなかにあり、開かれていて、生のなかにおいても高められた子供、想像の子供、創造者の子供でなければならない。

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