『兄 小林秀雄』 高見澤潤子
大阪・梅田三番街の古本屋街で見つけた掘り出しもの!
『兄 小林秀雄』高見澤潤子 新潮社 昭和60年発行
小林秀雄の事を書いた本はたくさんあるけど、あまりそそらない。小林秀雄の事をご本人の文章以上に何か、書くことがあるのかと思う。
でも、妹さんの書いたものというのには、惹かれた。私にも兄がいるので、妹から見る兄ってちょっとそそられる。しかも210円!!
小林秀雄が妹さんにあてた手紙や、引用から、素晴らしい所を掲げてさせてもらいました。
なんて気持ちのいい言葉だろうと思う。
<その1>
富士子さんが、軽井沢で家庭教師のアルバイトをした時、もっと自分の時間が持てると思ったら、子どもたちに振り回されて、兄の小林秀雄に不平不満の手紙を書いた。その返事。
・・・「不平不満で毎日を送る位時間の浪費はない。もっと今という時を大切にしろ。お前は、娘たちを教えているつもりなんだろうが、教育というものは愛情が無ければ、絶対に出来ないものだ。本を読む時間がないなんて、自分の事ばかり考えていないで、もっと娘たちを可愛がってやれ。一緒に楽しんで来い」
<その2>
大学に入って、すぐ中原中也の愛人と同棲を始める。
しかし、その女の病的な仕打ちに、堪えても意味がなく、彼女は「心情」というものを持ち合わせていないことに気づき、大阪に逃げる。その頃の妹さんとの書簡のやり取りの中で。
・・・「芸術というものに行こうと思っている人間で、本当にこの道に資格のあるやつというものは、洵に(まことに)深海の真珠よりも稀なものだよ。それだけは確実なことである」
「人間が人間の真の良さだとか悪さだとかがわかるまでには、大変な苦労が要るものだ。人間を眺めるときその人間の頭にある思想を決して見てはならぬ。それはただの思想だ。人間じゃない。その中に良さも悪さもあるものでない。・・・人間が不幸になるのは自然に反抗するからだ。これ以外に原因は全くない、反抗する仕方が個人個人で違うから不幸の陰翳(いんえい)が一人一人違う。人間の幸福は自然と合致することだ。自然になるのだから誰だろうと一様になるのだ。自然には劇はない、恐ろしいほど平凡なものだ。だから幸福とは常に恐ろしいほど平凡なものだ、親鸞の「歎異鈔」(たんにしょう)を読むといい。良い本だよ。自然というものの秘密を解いたものだ」
<その3>
生き物をとても可愛がっていた、というエピソードから
・・・「ああ、きれいだと心に感じて、じいっと見つめて、花と時を費やすところに、愛がある」
「人間は、いくら知識があっても、学問があっても、やさしい心が無ければ、立派な人間とは言えない。やさしい心とは感じることである」
<その4>
酒、たばこが大好きだった。
・・・「酔っぱらいほど頭が敏感に働くものはないんだぞ。いろんなことがよくわかるんだ。ひとの気もちだって、恐ろしいほどわかるんだ。酔っぱらいを軽蔑するな」
(私:池田晶子さんも同じようなことを言っていたなあ)
<その5>
・・・「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」
<その6>
どんな環境に置かれても、絶対に不平不満を言わず、よろこんで新しい発見のできる、柔軟性のある人でした(妹さん)
・・・「気に入ったものにいつまでもしがみついて。手放すのが惜しいとか、もったいないとか思うのは間違っているよ。時がくれば、これまでせいぜい利用してきたし、楽しんできたのだからもう十分だと思って、感謝して手放すのが本当だ。
<その7>
イライラしたり、不安になったり、孤独を感じたり、ヒステリックな状態になっていた更年期障害の頃の奥様に。
・・・「自分の事ばっかり考えているから、いけないんだよ。不安になったり、孤独を感じたりする奴は、必ず自分の事しか思わないやつだ。もっとひとのことを思え。一生懸命ひとのために何かしようと考えてみろ。不安なんかなくなっちまうから」
<その8>
・・・「大抵の人は、自分勝手な、非常識なことをして、人とはあまりよく交わらないような人を、あの人は個性が強いなんていうが、それは個性が強いんじゃなくて、我が強いんだ。自分のことばかり思ってる人だ。個性っていうものは、独りよがりの思い上がりで、出来るもんじゃない。柔軟な心で素直に社会と交わなければ、うまれないものだ。・・・他人への信頼と無私な行動とが、一番よく自分の個性を育てるものだ。独創性を発揮してやろうなんて、いくらきばってやったって、独創的な仕事は出来っこない」
「無私になるとは自然に任すことだ。自然にまかすというより、自分より大きなものが常にあるということだ。自分を無くすということは、その大きな魂に従うことだ」
<その9>
・・・「大きなものがあって、その中に自分がいる。それならば、その大きなもののように、心が働くということが自然のこと、そう働かざるを得ないということだ。今の思想は、超自然のものがなくなったということが、自然だと言っている」
<その10>
・・・「情緒のない所には、真実もない、美もない、信仰もない」
「ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向こうに眼があって、私がみられているような感じを、私は持っております」
<その11>
・・・「音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ。そしてそれは自分の精神の力に今更のように驚くことだ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずるように、私たちは誘われるのです」
素敵だなあ、ほんと。普段感じていることを、きちんときれいな言葉にしてくださっているわー・・・大好き、小林秀雄さん。
お墓参りにも行く。自転車で。
『兄 小林秀雄』高見澤潤子 新潮社 昭和60年発行
小林秀雄の事を書いた本はたくさんあるけど、あまりそそらない。小林秀雄の事をご本人の文章以上に何か、書くことがあるのかと思う。
でも、妹さんの書いたものというのには、惹かれた。私にも兄がいるので、妹から見る兄ってちょっとそそられる。しかも210円!!
小林秀雄が妹さんにあてた手紙や、引用から、素晴らしい所を掲げてさせてもらいました。
なんて気持ちのいい言葉だろうと思う。
<その1>
富士子さんが、軽井沢で家庭教師のアルバイトをした時、もっと自分の時間が持てると思ったら、子どもたちに振り回されて、兄の小林秀雄に不平不満の手紙を書いた。その返事。
・・・「不平不満で毎日を送る位時間の浪費はない。もっと今という時を大切にしろ。お前は、娘たちを教えているつもりなんだろうが、教育というものは愛情が無ければ、絶対に出来ないものだ。本を読む時間がないなんて、自分の事ばかり考えていないで、もっと娘たちを可愛がってやれ。一緒に楽しんで来い」
<その2>
大学に入って、すぐ中原中也の愛人と同棲を始める。
しかし、その女の病的な仕打ちに、堪えても意味がなく、彼女は「心情」というものを持ち合わせていないことに気づき、大阪に逃げる。その頃の妹さんとの書簡のやり取りの中で。
・・・「芸術というものに行こうと思っている人間で、本当にこの道に資格のあるやつというものは、洵に(まことに)深海の真珠よりも稀なものだよ。それだけは確実なことである」
「人間が人間の真の良さだとか悪さだとかがわかるまでには、大変な苦労が要るものだ。人間を眺めるときその人間の頭にある思想を決して見てはならぬ。それはただの思想だ。人間じゃない。その中に良さも悪さもあるものでない。・・・人間が不幸になるのは自然に反抗するからだ。これ以外に原因は全くない、反抗する仕方が個人個人で違うから不幸の陰翳(いんえい)が一人一人違う。人間の幸福は自然と合致することだ。自然になるのだから誰だろうと一様になるのだ。自然には劇はない、恐ろしいほど平凡なものだ。だから幸福とは常に恐ろしいほど平凡なものだ、親鸞の「歎異鈔」(たんにしょう)を読むといい。良い本だよ。自然というものの秘密を解いたものだ」
<その3>
生き物をとても可愛がっていた、というエピソードから
・・・「ああ、きれいだと心に感じて、じいっと見つめて、花と時を費やすところに、愛がある」
「人間は、いくら知識があっても、学問があっても、やさしい心が無ければ、立派な人間とは言えない。やさしい心とは感じることである」
<その4>
酒、たばこが大好きだった。
・・・「酔っぱらいほど頭が敏感に働くものはないんだぞ。いろんなことがよくわかるんだ。ひとの気もちだって、恐ろしいほどわかるんだ。酔っぱらいを軽蔑するな」
(私:池田晶子さんも同じようなことを言っていたなあ)
<その5>
・・・「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」
<その6>
どんな環境に置かれても、絶対に不平不満を言わず、よろこんで新しい発見のできる、柔軟性のある人でした(妹さん)
・・・「気に入ったものにいつまでもしがみついて。手放すのが惜しいとか、もったいないとか思うのは間違っているよ。時がくれば、これまでせいぜい利用してきたし、楽しんできたのだからもう十分だと思って、感謝して手放すのが本当だ。
<その7>
イライラしたり、不安になったり、孤独を感じたり、ヒステリックな状態になっていた更年期障害の頃の奥様に。
・・・「自分の事ばっかり考えているから、いけないんだよ。不安になったり、孤独を感じたりする奴は、必ず自分の事しか思わないやつだ。もっとひとのことを思え。一生懸命ひとのために何かしようと考えてみろ。不安なんかなくなっちまうから」
<その8>
・・・「大抵の人は、自分勝手な、非常識なことをして、人とはあまりよく交わらないような人を、あの人は個性が強いなんていうが、それは個性が強いんじゃなくて、我が強いんだ。自分のことばかり思ってる人だ。個性っていうものは、独りよがりの思い上がりで、出来るもんじゃない。柔軟な心で素直に社会と交わなければ、うまれないものだ。・・・他人への信頼と無私な行動とが、一番よく自分の個性を育てるものだ。独創性を発揮してやろうなんて、いくらきばってやったって、独創的な仕事は出来っこない」
「無私になるとは自然に任すことだ。自然にまかすというより、自分より大きなものが常にあるということだ。自分を無くすということは、その大きな魂に従うことだ」
<その9>
・・・「大きなものがあって、その中に自分がいる。それならば、その大きなもののように、心が働くということが自然のこと、そう働かざるを得ないということだ。今の思想は、超自然のものがなくなったということが、自然だと言っている」
<その10>
・・・「情緒のない所には、真実もない、美もない、信仰もない」
「ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向こうに眼があって、私がみられているような感じを、私は持っております」
<その11>
・・・「音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ。そしてそれは自分の精神の力に今更のように驚くことだ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずるように、私たちは誘われるのです」
素敵だなあ、ほんと。普段感じていることを、きちんときれいな言葉にしてくださっているわー・・・大好き、小林秀雄さん。
お墓参りにも行く。自転車で。
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