「見えるものと見えないもの」横尾忠則 対話集
先日、古本屋で、横尾忠則の対談集「見えるものと観えないもの」(メルロポンティは「見えるものと見えないもの」)を見つけた。対談の相手が、淀川長治、中沢真一、梅原猛、島田雅彦、黒澤明、吉本ばなな、栗本信一郎、河合隼雄、荒俣宏、草間彌生、天野祐吉とおもしろい面々。1992年発行。
メルロポンティの「目と精神」はクレーを例に挙げている部分があるのだけど、その考え方に共感できる。なのでこの本も面白そうで、手に入れた。出会いだな。
横尾さんの精神世界的なことも、出てくるけれど、芸術に関することなど、正直に、感覚的に話していて、おもしろい。
栗本信一郎との対談のタイトルが「見えるものと見えないもの」となっている。<神はそこに存在する><見えるものの中にすべてがあって、見えないものもその中に入っている>というのが、栗本氏いわく「乱暴に言ってしまえば、ポンティの考え」。横尾さんはそこから、このタイトルを「見えるものと観えないもの」としたそうだ。
横尾:芸術行為はすでにチャネリング(超越的存在との交信)だと思う。(99p)
私はパウルクレーが好きだ。どこが?と言われても説明しがたい。メルロ=ポンティのなかにも「生えてきたかのような色」という表現があるが、うまいこと言うなあと思う。生々しいエネルギーが宿っている。シンプルな線にさえ。そう感じるのだ。原始的な感じ。嘘のない感じ。
クレー本人は生徒に授業をするときはとても論理的で、厳格だったという。形・色・線・動きなど、自然界の一部として、そのバランスをいつも考えていたのではないだろうかと想像する。ちなみにクレーはヴァイオリンを演奏する。絵の中に音楽的なものも感じる。
中沢新一との対談「宇宙の愛」では
横尾:芸術は人生だから。特別実験したり、探求する物じゃないよ。セザンヌは1枚の絵を半年もかけて描いたり、タッチひとつ入れるのに躊躇 したり、そういう純粋芸術の探求みたいなことをやったでしょう。
中沢:音楽にしたって後期ロマン派以降の現代音楽と言われるものは意味がない。
20世紀の最大の誤りは純粋追求だと思う。モンドリアンもカンディンスキーも社会主義も。それが全部失敗作を作っちゃった。あの時期に、パウル・クレーが純粋意識に反旗を翻したでしょう。
横尾:パウル・クレーはいいですよ。
中沢:あれなんだと思う。
横尾:20世紀美術は、絵画を絵画として自立させようとしたでしょう。自立させようとしたところに問題があると思う。絵画みたいなものを何で自立させなきゃいけないんだろう。芸術のための芸術は人間の魂と無関係だからね。
横尾:プリミティブ・アートの中には、何とも言えない魂の故郷に触れるようなところがあるでしょう。ああいうイノセントなところが重要だと思う。
中沢:素人っぽさは意味ないけど、どれも魂に関わることなんです。
現代音楽に興味があって一生懸命練習した時期があったし、ジャズとも呼応しているので”意味がない”まで言うのは辛辣すぎると思うけど、キースも「もういい加減にメロディを弾こうよ」と言っていた時期がある。私自身も、メロディを奏でることが音楽の最も大事なことだと思っている。
そして、クレーに関して、おー!同じように感じている人が、ここに二人もいた!
黒澤明との対談「芸術は真摯な遊び」
横尾:(「8月の狂詩曲」を見て)世間では凄まじい完璧主義と言われるが、もっと自然体で楽しんで映画を作っていらっしゃるのでは?
黒澤:そのとおりです。そりゃ、撮る以上は、こんなふうに撮ろうってことは考えますよ。でもスタッフの意見や俳優さんたちの具合によって変わってくるでしょ。だから、自分の思い通りにシーンが撮れた時は、かえって機嫌が良くない。
横尾:芸術家がわがままなのは当たり前。我のまま=わがまま。
黒澤:映画っていうのは、”頭”で見るものじゃなくてハートで見るものだ。日本の批評家は変にこじつけたり、難しいことを言ったり、そんな事、僕考えてみたこともないよ、っていうのがすごく多いです。そして日本の客は、そういう批評を読む。なんでも難しく見ようとする。
横尾:魂に直接訴えかけてくる、言葉にならない喜びや驚きを、見る人に受け取ってもらいたいのに・・・。日本人は、はじめから、感動しないバリアを張って見ているようなもの。
黒澤:映画にもし一つの力があるとすれば、それは言語や習慣を超えて、スクリーンの上の喜びや悲しみや悩みを感じることが出来ることです。そこでは、映画と見る人が、一つになっているわけだから。
黒澤さんは自然体で映画を作っていたのだ。「夢」のシーンの美しさ、忘れられない。
黒澤:ドストエフスキーが、夢というのは、その人の願望や欲望を表しているんだけど、それにしてもその表現の仕方が天才的だ、ものすごい技術を使っているって言ってるんです。成程実に上手いんですね、表現の仕方が。そこから始まったんです。
黒澤:映画というものは、いろんな条件があって、ちょうどその時に生まれるんです。生まれるべくして生まれてくるのです。
黒澤:「乱」に、なかなかお金を出してくれるところが見つからなかった。こんなものじゃとても客が入らないって。それで結局出してもらったのはフランス政府なんですよ。ラング文化大臣に尋ねたことがあります。「どうして、あなたはそんなに僕に親切にしてくれるのか」って。そしたらたった一言「フランス人は黒澤さんを愛しているからだ」って。
横尾:日本の政治家にはそういう言葉は全くでないですからね。芸術なんか余計なもので、なくたって生きていけるっていう考え方だから。
黒澤:とりわけ日本の社会における映画監督の地位たるやひどいもんです。外国へ行っている間は、何かとよくしてくれるのに、成田に帰ってきたとたん、乞食になったみたいな気持ちがする(笑) 日本の政治家なんか、会ったってたいてい「俺は映画なんか見たことない」ですから。
映画会社や監督、俳優、子役の話なども面白く、また戦争中『「こういうことを言え」と言われあんな嫌なことはなかった、逃避するしかないね』とも。
メルロポンティの「目と精神」はクレーを例に挙げている部分があるのだけど、その考え方に共感できる。なのでこの本も面白そうで、手に入れた。出会いだな。
横尾さんの精神世界的なことも、出てくるけれど、芸術に関することなど、正直に、感覚的に話していて、おもしろい。
栗本信一郎との対談のタイトルが「見えるものと見えないもの」となっている。<神はそこに存在する><見えるものの中にすべてがあって、見えないものもその中に入っている>というのが、栗本氏いわく「乱暴に言ってしまえば、ポンティの考え」。横尾さんはそこから、このタイトルを「見えるものと観えないもの」としたそうだ。
横尾:芸術行為はすでにチャネリング(超越的存在との交信)だと思う。(99p)
私はパウルクレーが好きだ。どこが?と言われても説明しがたい。メルロ=ポンティのなかにも「生えてきたかのような色」という表現があるが、うまいこと言うなあと思う。生々しいエネルギーが宿っている。シンプルな線にさえ。そう感じるのだ。原始的な感じ。嘘のない感じ。
クレー本人は生徒に授業をするときはとても論理的で、厳格だったという。形・色・線・動きなど、自然界の一部として、そのバランスをいつも考えていたのではないだろうかと想像する。ちなみにクレーはヴァイオリンを演奏する。絵の中に音楽的なものも感じる。
中沢新一との対談「宇宙の愛」では
横尾:芸術は人生だから。特別実験したり、探求する物じゃないよ。セザンヌは1枚の絵を半年もかけて描いたり、タッチひとつ入れるのに躊躇 したり、そういう純粋芸術の探求みたいなことをやったでしょう。
中沢:音楽にしたって後期ロマン派以降の現代音楽と言われるものは意味がない。
20世紀の最大の誤りは純粋追求だと思う。モンドリアンもカンディンスキーも社会主義も。それが全部失敗作を作っちゃった。あの時期に、パウル・クレーが純粋意識に反旗を翻したでしょう。
横尾:パウル・クレーはいいですよ。
中沢:あれなんだと思う。
横尾:20世紀美術は、絵画を絵画として自立させようとしたでしょう。自立させようとしたところに問題があると思う。絵画みたいなものを何で自立させなきゃいけないんだろう。芸術のための芸術は人間の魂と無関係だからね。
横尾:プリミティブ・アートの中には、何とも言えない魂の故郷に触れるようなところがあるでしょう。ああいうイノセントなところが重要だと思う。
中沢:素人っぽさは意味ないけど、どれも魂に関わることなんです。
現代音楽に興味があって一生懸命練習した時期があったし、ジャズとも呼応しているので”意味がない”まで言うのは辛辣すぎると思うけど、キースも「もういい加減にメロディを弾こうよ」と言っていた時期がある。私自身も、メロディを奏でることが音楽の最も大事なことだと思っている。
そして、クレーに関して、おー!同じように感じている人が、ここに二人もいた!
黒澤明との対談「芸術は真摯な遊び」
横尾:(「8月の狂詩曲」を見て)世間では凄まじい完璧主義と言われるが、もっと自然体で楽しんで映画を作っていらっしゃるのでは?
黒澤:そのとおりです。そりゃ、撮る以上は、こんなふうに撮ろうってことは考えますよ。でもスタッフの意見や俳優さんたちの具合によって変わってくるでしょ。だから、自分の思い通りにシーンが撮れた時は、かえって機嫌が良くない。
横尾:芸術家がわがままなのは当たり前。我のまま=わがまま。
黒澤:映画っていうのは、”頭”で見るものじゃなくてハートで見るものだ。日本の批評家は変にこじつけたり、難しいことを言ったり、そんな事、僕考えてみたこともないよ、っていうのがすごく多いです。そして日本の客は、そういう批評を読む。なんでも難しく見ようとする。
横尾:魂に直接訴えかけてくる、言葉にならない喜びや驚きを、見る人に受け取ってもらいたいのに・・・。日本人は、はじめから、感動しないバリアを張って見ているようなもの。
黒澤:映画にもし一つの力があるとすれば、それは言語や習慣を超えて、スクリーンの上の喜びや悲しみや悩みを感じることが出来ることです。そこでは、映画と見る人が、一つになっているわけだから。
黒澤さんは自然体で映画を作っていたのだ。「夢」のシーンの美しさ、忘れられない。
黒澤:ドストエフスキーが、夢というのは、その人の願望や欲望を表しているんだけど、それにしてもその表現の仕方が天才的だ、ものすごい技術を使っているって言ってるんです。成程実に上手いんですね、表現の仕方が。そこから始まったんです。
黒澤:映画というものは、いろんな条件があって、ちょうどその時に生まれるんです。生まれるべくして生まれてくるのです。
黒澤:「乱」に、なかなかお金を出してくれるところが見つからなかった。こんなものじゃとても客が入らないって。それで結局出してもらったのはフランス政府なんですよ。ラング文化大臣に尋ねたことがあります。「どうして、あなたはそんなに僕に親切にしてくれるのか」って。そしたらたった一言「フランス人は黒澤さんを愛しているからだ」って。
横尾:日本の政治家にはそういう言葉は全くでないですからね。芸術なんか余計なもので、なくたって生きていけるっていう考え方だから。
黒澤:とりわけ日本の社会における映画監督の地位たるやひどいもんです。外国へ行っている間は、何かとよくしてくれるのに、成田に帰ってきたとたん、乞食になったみたいな気持ちがする(笑) 日本の政治家なんか、会ったってたいてい「俺は映画なんか見たことない」ですから。
映画会社や監督、俳優、子役の話なども面白く、また戦争中『「こういうことを言え」と言われあんな嫌なことはなかった、逃避するしかないね』とも。
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